怒りは恐怖を拒絶する盾
私の体験談。
怒りが収まらないとき、私はいつも気付いていなかった。
無視していた。
自分が恐怖を感じていることを否定するために怒っているのだということを。
私の信念に反することを見たときを除いて、「あいつが間違っている!」と腹が立つのは、私の核を成す歪んだ信念を否定されたと感じていたから。
歪んだ信念=べき思考。
私はそのべき思考に従うことが、生きることを許されるために必須の条件だと信じていた。
強迫観念と言ってもいいかもしれない。
だから、私のべき思考を否定するようなことが世界に許容されると、私が生きていてもいいという条件だと信じていたべき思考が間違っていたことになり、それは私は生きていてもいいという条件を満たせていなかったことになる。
でも、私が生きていてもいい条件を満たせていなかったということを認めると、私は今すぐ私という存在を罰してこの世から消えないといけない。
それは恐ろしいことだから、強烈な恐怖が湧く。
その恐怖を直視して実感するのが恐ろしく、耐えられないことを無意識で分かっていたから、その恐怖を二次感情の怒りへと歪めて、その怒りだけを自覚する。
一次感情の恐怖を自覚して受け入れるということをしないから、いつまでたっても怒りという感情を消化できずに、激しく長い怒りが何時間も何日も何か月も何年も続いていた。
その時間の中で、同じような「間違っている!」という怒りが何度もおきて、それがどんどん混ざり合って、一体に何に怒っていたのか分からなくなるけれど、心の底には何年も掛けて大きくなったどす黒い恐怖ができて成長し続けていた。
それは心身を様々な形で蝕み、私はもはや人間の形をした怒りの肥溜めのようになっていた。
病気で倒れ、支援を受ける中で、私の怒りは恐怖から私の命を守る盾だったことを知る。
しかしそれは盾ではなく、実は諸刃の剣だったことに気付く。
30年あまりという歳月を掛けて凝縮されてきた恐怖という感情を、私は全身で味わうことになった。
それはものすごく苦しく痛く悶える時間であったと同時に、初めて味わう深い喜びに浸る時間でもあった。
その時初めて、私は自分の心を実感できたから。
それから紆余曲折を経て、ある時私は自己肯定の萌芽を感じた。
感情そのものには善悪はなく、全ての感情は誰からも否定されてはならない尊いものだということを心で確信した。
感情をどう出すか。
感情に善悪があるとしたら、自分の感情を受けて自分をどう在らせるかということ。
感情そのものには善悪も貴賤も正誤も優劣もない。
私を苦しめていたのは、私の感情への私自身の拒絶だった。
だから、私は心で生きることがどれほど素晴らしいのかを全身で感じている。
まだまだ感情を拒絶する癖は抜けていないけれど、自分の心とつないだ手を離さないように、自分の心を裏切らないようにしたい。