箍を外す恐怖と希望

箍(たが)を外(はず)・す

規律や束縛から抜け出す。

箍(たが)とは、桶(おけ)や樽(たる)の周りにはめる、竹や金属で作った輪のこと。

タガは、まっすぐの木を強く締め付けてカーブさせて、並ぶ木の板の隙間が無くなるように固定させるものです。

この数年、生きるのが楽になって改めて感じるのは、苦しかったときは心を強烈なタガで締め付けていたな、ということです。

そのタガは誰かに付けられたもののように感じていましたが、本当は自分で付けていて、自分でどんどん締め付けを強くしていました。

その誰かとは、母。

いや、自分以外の全ての人。

私を怒り否定し責め立て拒絶する人たち。

その人たちは、確かにタガで締め付けようとしていたかもしれない。

でも、タガをはめて締め付ける、と決めたのは自分でした。

というか、はめることでしか生き延びることができなかった。

心にとってのタガは、不自然なものです。

本来の自然な姿を、無理やり歪めるものです。

当時の私は、自分の心にタガがはまっていて、その締め付けが強烈なものだと自覚していませんでした。

当然、そのタガを外せるなんて思いもしませんでした。

タガを外すと、心は自然な形になって、世界から鮮やかなぬくもりや心を強くする痛みをたくさん感じられるようになります。

心にタガがはまっていて、締め付けられて歪められている。

それがこの苦しさを生み出している。

このタガは自分ではめていたんだ。

自分ではめたんだから、自分で外せるはずだ。

そのことに気付き、タガを外したいと願う。

でも、タガを外すことは、今までやってはいけないことや、やったら恐ろしいことになる、ということをやることと同義だと感じます。

それはあまりにも恐ろしい。

今まで自分の命を守っていたタガを、自分から手放す。

それは裸でライオンの檻に入るようなもの。

決してしたくないのに、自分から命を手放すこと。

そのような恐怖。

それがタガを外す恐怖。

でも、タガを外してみると、世界は想像もしていなかったような美しさに満ちていることに気付く。

心が震えるような喜びもあれば、立ち上がれないと感じるような痛みもある。

それは自分が自分を生きている実感。

操られていた、他者をなぞっていた砂の世界とは違う、命の鼓動が響く世界。

タガを自分一人だけで外すのはとてつもなく恐ろしく、たくさんの傷を負う。

だから、寄り添ってくれる人を一人でもいいから見つけて欲しい。

人を信じることはとても難しくて逃げ出したくなるし、時に深く深く傷つくこともあるけれど、立ち向かうだけの十分すぎるほどの価値がある。

根拠はないけれど、絶対にできる。

私がその寄り添う一人になれるかもしれないし、なれないかもしれない。

まだ出会っていない人がこれから寄り添ってくれるかもしれない。

すぐ側にいて敵だと思っていた人が寄り添ってくれれるかもしれない。

もしかしたら、今すぐには寄り添ってくれる人と出会えないかもしれない。

それでも、いつか人を信じてその人と一緒にタガを外すことを想像してほしい。

タガを外す恐怖と向き合い、自分を守ってきてくれたタガを慈しみ、自分の中へと溶かしていくことを想像してほしい。

箍を外す恐怖の先には、心を救う美しさに溢れた希望が必ずある。