私が感じている「幸せ」の意味

自分の人生を、自分が主人公として生きる。そのように生きていると実感している。

私が感じている幸せの意味は、これです。

私は、「私は生きる能力がない欠陥品、私の感情は悪、私の存在そのものが間違ってる、悪だ」ということを疑わずに生きてきました。

だから、正しいとされていることをなぞることと、私の周りで評価されている人を真似することに必死でした。

それって、私の存在そのものを私が全否定して、他人の人生を生きることそのものですよね。

そんなのは人間の自然な生き方じゃないですよね。

むしろその真逆で、ものすごく不自然な、自分を痛めつけ根本から自分をゆっくりと殺していく生き方だと感じています。

病気で倒れてからの数年間、たくさんの人の支援を受け、自分の存在をある時ゆるせました。

私も心を持っていい。

私が心に従って喜び、愛し、傷つき、苦しむ。

私の人生を、心に従って生きる。

私は自分を生きている。

そんな感覚が芽生え、それに従う生き方を選びました。

自分の心を感じ取り、耳を傾け、自分の心で決断する。

決して人の顔色や世間を第一の基準にしない。

それが、私にとっての幸せ、「自分の人生を、自分が主人公として生きる」です。

例え苦しく、怒りに苛まれる道を歩く時があっても、自分で選んだと感じることができていれば、私は幸せです。

そんなことを実感できることが、私にとっての幸せです。

選ぶ。

これは、選択肢を一つに絞るという意味ではありません。

正しいとか優れているとかメリットがあるといった意味も伴いません。

別の言葉を使うなら、「受け入れる」です。

この世界は、全てのものがつながりを持ち、お互いに影響を与え続けています。

だから、完全に自分だけのせいとか、他者のせいというものはありません。

「私のせい」と聞くと、「私が悪い、私がこんなことをされるのは私が悪いから当然のことなんだ」という気持ちになる人もいるかもしれません。

また、「あいつのせい」と聞くと、「あいつが悪いんだから、あいつは責められて当然だ、あいつが償って当然だ」という気持ちになる人もいるかもしれません。

私が使っている「せい」というのは、そのような責任でも罪でも優劣でも善悪でもありません。

それはただの人間の、しかも個人の評価で、事実が独立して持つ意味ではなく、個人が想像して紐づけた後付けの意味にすぎません。

ある出来事が起きたとき、そこにはなんらかの「理由」がある。

違う表現をするなら、様々なものが多様に影響し合った結果だ。

それだけのことです。

その「理由」には、合理的に考えて誰しもが納得できる分かりやすいもののように見えるものもあれば、まったく分からないというか想像できないものもあります。

全ての人が感覚的にそうだと確信できて、未来永劫正しいと証明できるような理由は、誰にも分かりません。

私が信じていることも、明日には間違っていたということもあり得ますし、実際にそうだったこともあります。

だから、確かなことなんてないんです。

結局、生きようとするとき、私にできることは「ただそうあるだけ」と、目に見えるもの、感じるものを、ありのまま受け入れて執着せず、今に存在するぐらいしかないのです。

その「ただそうあるだけ」と受け入れるとき、心にザラザラしたものがまとわりついていると、自分を苦しめる不自然な怒りや悲しみ、未練に飲み込まれて世界が歪んで見え、「ただそうあるだけ」ではなくなってしまいます。

それが生きる苦しみを生み続ける一つの大きな要因だと感じています。

だから自分の、心を観て、心に耳を傾け、心を体で感じる。

純粋な心の声は、ここちよい感覚を与えてくれます。

その心の声に従って生きる。

それが幸せに存在することの源泉であり、全てだと感じています。

そのように存在することが、自分の人生を自分が主人公として生きることだと感じています。

と、書いてみましたが、私はこんな生き方を時々しかできてません。

いろんなしょうもない欲にまみれてて、ちいさなことに傷ついたり怒ったり、自分勝手だったりもします。

執着もしまくりです。

それでも私は、私にとっての幸せの在り方をできたとき、心の底から生きていることの喜びを感じるので、できるときを少しでも増やそうとしています。

こんな感じのふわっとした、どこかで読んだり聞いたりしたようなものは、具体的な方法でもなんでもなくて、明日には忘れてしまうようなものに感じる方も多いと思います。

もしかしたら、朝家を出るまえにテレビでチラッと見た占いと、大して変わらないと感じられるかもしれません。

抽象的で、スピリチュアルな感じを受けた方もいるかもしれません。

なので、私も実践して効果を感じた具体的な方法を、別の記事でご紹介していきたいと思います。

今回の記事を含め、私という存在が少しでも幸せの材料になれることを願っています。