社会と守られた空間の狭間

心が疲れ、一度社会から離れる。

そこからまた、社会に戻る選択をする。

社会に戻る前に、人としての愛に守られた空間で心を癒し、また生きる勇気を持つ。

その愛と勇気を糧に、一度牙を向けられた社会に戻る。

あの場所を忘れている。

社会と守られた空間の狭間を。

就労移行支援や自立訓練といった支援機関と、戻ろうとしている社会。

私は、この二つの間にある、二つの空間をつなぐ場を持つことがとても大切なんだろうなと感じています。

人格を否定しない、人としての愛を持って接してくれる人に囲まれた空間に私は長くいたため、社会の機微や人間の矛盾、多様性から受ける様々な刺激を忘れていってしまっていました。

その忘れた感覚を取り戻すのに、1年ぐらい掛かったように思います。

私は、職場の人に恵まれたおかげで感覚を取り戻すまでに日々受ける傷を、心身が酷く疲弊する前に癒すことができていました。

これはとてもありがたく、貴重なことだと痛感しています。

しかし、今の会社に入る前に勤めた会社では、感覚を取り戻す前に心身が限界を迎え、働けなくなり、日常生活も酷いものになってしまいました。

このような経験を経て、また、支援機関の方や利用者の方の話を聞いて、「このようなものを持つことができればもっとスムーズに社会に戻れるのでは?」と実感しているものがあります。

それは、心理的安全性を感じられる緩いつながりでできたコミュニティーであり、社会と守られた空間の狭間です。

ネガティブな刺激が支援機関よりも多く、戻ろうとしている社会よりも少ない。

悩みや弱みを見せることができる。

心が喜ぶ瞬間がある。

そんな場です。

あたかも特別なことのように書きましたが、そんなことはなく、そのような場はたくさんあります。

趣味のサークルや習い事の教室、支援機関のOBOGの人たちの私的な集まり、自助会、友人。

他にもあります。

これらに共通するのが、はっきりと共感できるものがあるということです。

「この人は私のことを分かってくれる」と感じられる人がいるかいないか。

これまで深く傷ついたことがある社会を生活の一部にするとき、そのように感じられる人がいるのといないのとでは、とてつもない差があります。

社会に戻り直面する問題を、自分の心からの発信を原点として本質的に解決しようとするとき、鋭い痛みを伴うことも多いです。

問題を真正面から解決するか、問題から離れるか、どちらの選択をするにしても。

そのような傷を受けたとき、「私の心を感じてくれる」人は、心を癒す大きな存在となります。

逆に、心を許せる人がいないと、自分の力だけで自分の心を癒さなければなりません。

これはあまりにも苦しく、痛く、辛いことです。

だから、社会に戻ろうとするとき、また、新たな生活を始めたとき、社会と守られた空間の狭間はとても大きな味方になってくれます。

コミュニティーを見つけ、コンタクトをとり、知らない人と接しつながりをつくる。

これらをするには様々な壁があると思います。

大きな大きな恐怖が立ちはだかることばかりだと思います。

私もほんとうに壁がたくさんありました。

恐怖に打ちのめされてなにもできなかったことも数え切れません。

自分には、自分らしく幸せに生きることなんかできない。

そんな風に感じることが自覚できないぐらいに当たり前のことでした。

それでも、その壁を少しずつ自分のペースで乗り越えて、社会と守られた空間の狭間に居場所を作ることには、とてつもない価値があります。

これまで壮絶な苦しみを味わってきた、それでも生きることを選び続けてきた、いまこれを読んでくれている苦しみの中でもがいている人は、ものすごく強い心を持っています。

断言します。必ず強い心を持っています。

だから、これからも生きることを選んている人は、いろんなことに挑戦し、乗り越える力を絶対に持っています。

だから、社会と守られた空間の狭間を見つけることには価値がある、ということをぜひ覚えておいてください。

なにごとにもタイミングというものがあります。

そのタイミングが来たときに、社会と守られた空間の狭間を探すことを選択肢の一つとして思い浮かべるために。